北に向いて手を合わせる
横浜駅で◯◯(8の名前)と別れる。いつもとは違って万感胸に迫るものがある。
1月3日に記された父の日記の一文です。
この日は、わたしと両親で横浜のデパートに出かけ、誕生日プレゼントだといってペンダントを買ってもらいました。ここ数年、お正月実家から戻るときに初売りのデパートに寄って、近くのホテルのティールームでお茶を飲んで別れるのが恒例でした。両親も年をとっているので、わたしはそのまま横浜で友人と待ち合わせがあったのですが、改札口まで連れ立って歩き手を振って見送りました。これが私が父を見た最後の姿になりました。
昨年末からお正月にかけて毎日実家に顔を出し、2日、父母と自分でいつもの神社へ初詣。例年と違ったのは、タクシーで出かけたこと。6年前に大腸ガンを患った父は、その後転移なしとのことで元気でした。でも、最近、肺に影が見つかり内視鏡検査を勧められたものの、「今なんともないので積極的な検査や治療はしない」と私たちにも医師にも伝えていました。夏に実家い戻ったときは、まったく普通に元気でしたので、あまり頻繁に連絡もしていませんでした。年末に「便りがないのはよい報せ」ってことでしょう?と何気なく話すと、父が「いやそうでもなくて」と。秋ごろから咳が出ることが増えたといい、肺の影はガンに間違いないだろうとのこと。駅ではエレベーターやエスカレーターを利用するようになっていました。そして、開胸検査や手術をしてガンの様子の詳細を調べる代わりに1月9日にPET検査というのを受けることになったと言っていました。父が医師に余命を尋ねると、一週間かもしれないし、数年かもしれないと言われたとのこと。私がこのお正月の次に帰省できるのは、夏なので、「次のの夏までもつか?」と尋ねたら「なんとも言えません」と言われたと話していました。
私が島に来ることが決まったとき、また、島に来てから帰省するたびに、父は「俺が死んだら、こっちの方に向かって手を合わせてくれればいいから」と言っていました。わたしや母が、そんなこと言わないでよ、と言うと「死に目に会えなかったら(島から来られなかった場合)ずっと一生気にするだろう?お父さんがそう言ってたと思えば気が楽じゃないか。」と。
また、父は、数年前、これから相続の勉強をする、と言って、図書館に通っていました。我が家では、けっこう前から、両親が長期の旅行に行く前には、ここには印鑑がある、とか預金通帳はここだとか、もしも父に何かあったらこれくらいのお金がある、とかそんな話を冗談交じりで家族団欒のときにしていましたので、その延長だ、くらいに思っていましたが、今思うと本当に頭が下がります。
だいたい月一回の旅行と映画やコンサート、週末の囲碁、とアクティブな父でしたが、海外旅行に行かなくなり、山登りをしなくなってできた時間を、身辺整理や相続の準備にあてていたようです。そんなに遠くないいつかのために、家族のことを考えた遺言的なものをパソコンに保存してあるから、と年末に見せてくれました。そして、相続についての本を見せながら、これはわかりやすい、読めばだいたいのことはわかるから、と一部のページをコピーしたものと、父の作ったエクセルの書類を渡されました。その時は、こんなに早く別れがくるとは思ってもいませんでした。亡くなった後に分かったことですが、父の子供の頃からの分厚いアルバムも整理したようで、新しいアルバムに写真を抜粋して貼り直してありました。母が買い物に行っている時間にそういうことをやっていたようでした。
1月4日。
私は予定通り島に戻りました。島に着いてすぐ実家に電話をしたとき、出たのは父でした。なんだかブツ切れで電話が切れてしまったのが気になり、買い物に出ていた母の携帯に電話をしましたが、その後何も言っていなかったので特に気にしていませんでした。
私は予定通り島に戻りました。島に着いてすぐ実家に電話をしたとき、出たのは父でした。なんだかブツ切れで電話が切れてしまったのが気になり、買い物に出ていた母の携帯に電話をしましたが、その後何も言っていなかったので特に気にしていませんでした。
6日の午前中に父からのメールで知ったのですが、実は、この4日の朝、父は自力で起き上がれなかったそうです。母の助けを借りて起き上がったこと、こんなことは初めてだったので、翌日、病院へ行き、毎週通院することになったこと、場合によっては入院もあり得ることや9日の検査は取りやめになったことが書かれていました。
年末に肺がんのことを聞いていたのは、母と私だけだったので、妹たちにもこの状況をしらせてくれ、とも書かれていました。実は私は、お正月に妹たちが実家に集まった帰り、見送りながら妹たちに父が肺がんで、もしかするともうそれほど長くないかもしれない、ということをかんたんに話していました。すぐに、父のメールを転送して、父にも返事を打ちましたが、いや、電話だ、と思い電話で話しました。これが、父との会話の最後になりました。
父は毎日日記をつけていたのですが、そのためのメモがいつも座っていた椅子の横のマガジンラックに入っていました。もともと読みにくい文字を書く父でしたが、おそらくだいぶ力が入らなくなっていたのか疲れていたのか、いつもにまして解読が大変な文字でのメモでした。6日か7日のメモには、「昨日のパソコン作業が思いのほか疲れた」とありました。後で確かめると年末に私がもらった書類をさらに亡くなる前日にも更新してありました。
1月8日朝、休日でしたが、ヘリ予約があるので職場に行こうとしていたら、妹から電話。「お父さんが救急搬送された。今病院に向かっている。」
ざわざわしながらも、職場でヘリ予約の電話かけをした後、母に電話。わたしはまだ、父に息があると思って話していました。その後、母から「お父さんが今朝亡くなりました」とメールが入っていたことに気づきました。
ざわざわしながらも、職場でヘリ予約の電話かけをした後、母に電話。わたしはまだ、父に息があると思って話していました。その後、母から「お父さんが今朝亡くなりました」とメールが入っていたことに気づきました。
父は、8日の朝は普通に一人で起きたそうです。夜中に咳をしていたので、もう少し横になって休んでいたら?と母が声をかけたそうですが、起きてきたとのこと。着替えにも息が上がるくらいだったようで、母が着替えを助けている途中で力が抜け崩れるように倒れたそうです。
4日の日記には、「まだ寝たきり老人にはなりたくない」と書かれていました。きっと、そんな思いで8日の朝も起きたのだと思います。
わたしは、 島の洗礼を受け、9日はヘリが飛ばず、10日に出島。妹たちが葬儀の手配などはすべて進めてくれていました。
父が、島から手を合わせてくれればいい、と言ってくれていなかったら、島に来たことを後悔していたと思います。
ライフラインの名義変更や父の確定申告の準備を進めながら、大切なものがきちんと整理して保管され、領収証などすべてがクリップなどでとめられ整然と残されていることに、感謝しつつ、我が身を振り返ると反省するばかり。
父が年末に見せてくれた相続の本には、茅ヶ崎の本屋さんのブックカバーがかかっていました。いったいいつ買ったんだろう、と疑問に思っていたところ、なんと、スイカの履歴まで定期的に打ち出してそれもまとめてありました。履歴を見て母と話しているうちに、ちょうど1年くらい前に二宮に菜の花を見に行ったようでその帰りに立ち寄ったということを母が思い出しました。
苦しむことなく、自宅で、長年連れ添った母の眼の前で息をひきとったことは、父にとって幸せだったと思います。
こんな個人的なことをここに書くのはどうかなあ、と思いましたが、ここを読んでくださる方の中には、父に会ったことのある人もいるので報告を兼ねて。
年末年始とずっと一緒にいたので、離れて暮らしているわりには後悔はないのですが、ただ一つ後悔すること。元旦に、孫まで全員集合したときの記念写真に、わたしは、酔っ払っていてただ一人写っていないのです。これがあなたの「なんだかんだいっていちばん頼りにしている」といっていた娘ですーーーー。
2016年10月尾山展望公園にて (撮影8)
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コメント
ご冥福をお祈りします。3回目の月命日、と読んで驚いてここまで遡ってきたという体たらくですが、ウチの父を思い出しました。明後日が9回目の命日。病床で、PCに入れてあるファイルを印刷して持ってこいと言うので見ると、お父様ほどではないけれど、公共手続き/貴重品の在処/旧友への連絡/遺品の処分などを書いたテキストファイル。
母がそういうの苦手な人なので助かりました。私も苦手、でも見習わなきゃね、還暦迎えたら。
投稿: benjamin | 2018年4月 8日 (日) 10時31分
コメントありがとうございます。最近、年齢のせいだと思いますが、親世代のことが話題になることが多いですね。誰と話していても感じるのが、わたしたちの親世代の堅実さ、まじめさです。贅沢や刹那でなく、生活を楽しんでいたのだなあと思います。終活なんていう言葉に踊らされたとかではなく、自然に自分の生き様にきちんと始末をつけたんだなあと感心します。自分の家族をもつ(たなかった)ことについて、父の死で初めて考えましたよ。何はともあれ、こんなにちゃんと育ててもらったのだから、それにこたえられるように生きようと思うこのごろ。
投稿: 8 | 2018年4月 8日 (日) 21時34分